知られざる「世界一短い戦争」の衝撃の真実
1896年8月27日の朝、アフリカ東海岸に位置するザンジバルで、歴史に残る驚きの戦いが始まりました。場所は現在のタンザニアの一部となっているザンジバル。当時はインド洋に面した交易の要所として知られ、奴隷貿易で栄えた地域でした。
この戦いは、開戦からわずか40分で終結。ギネス世界記録にも「史上最短の戦争」として認定されています。正確な戦闘時間については、史料によって38分とも45分とも言われていますが、いずれにしても1時間にも満たない驚くべき短さです。
さらに驚くべきは戦闘の結果。ザンジバル側は約500名の死者を出したのに対し、イギリス側の被害は負傷者1名だけという、まさに一方的な戦いとなりました。しかも、その負傷者も後に回復したと記録に残されています。
この超短期決戦は、以下のような驚くべき速さで展開しました。
1896年8月25日:
– ザンジバルの親英派スルタン、ハマド・ビン・スワイニが突如死去
– その数時間後、ハリド・ビン・バルガシュが無断でスルタンの座を継承
1896年8月26日:
– イギリス政府がハリドに最後通告
– 翌27日午前9時までの退位を要求
1896年8月27日:
– 午前9時02分:最後通告期限切れ、イギリス艦隊による砲撃開始
– 午前9時40分:ザンジバルの王宮が陥落、戦争終結
– ハリドはドイツ領事館へ逃亡
この驚くべき速さの戦闘。一体なぜここまで短時間で決着がついたのでしょうか。そして、ハリドの逃亡先となったドイツ領事館では、イギリスとの間でどのようなやり取りが行われたのでしょうか。40分間の戦いの裏には、意外な展開が待ち受けていたのです。
圧倒的な「力の差」が生んだ歴史的なスピード決着
なぜ、これほどまでの短時間で決着がついたのでしょうか。その最大の理由は、両国の「力の差」にありました。
当時のイギリスは、「7つの海を支配する」と言われるほどの世界最強の海軍力を誇っていました。この戦いでも、最新鋭の巡洋艦3隻と砲艦2隻を投入。これに対しザンジバル側は、古い青銅砲1門と12ポンド野砲2門という、まるでおもちゃのような装備しか持ち合わせていませんでした。
実は、この12ポンド砲にはある皮肉な物語が隠されています。これはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世からザンジバルのスルタン(※イスラーム世界の君主号)に贈られたものでした。しかし、開戦からわずか2分で、イギリス軍の砲撃によって完全に無力化されてしまいます。
海上での戦いも同様に一方的でした。ザンジバルは「グラスゴー」という王室ヨット1隻を保有していましたが、これは皮肉にもイギリス海軍の艦船をモデルに建造されたものでした。戦闘が始まると、この「グラスゴー」は必死の抵抗を試みますが、イギリス軍の圧倒的な火力の前にあえなく沈没。乗組員たちは降伏の意思を示すため、イギリス国旗を掲げて投降することになりました。
陸上でも状況は変わりません。イギリス側は海兵隊と水兵計150名、さらにザンジバル人部隊900名を展開。一方のザンジバル側は約2,800名の守備隊を集めましたが、その大半が急遽集められた一般市民でした。まさに、訓練された精鋭部隊と臨時の寄せ集め部隊との戦いだったのです。
知っておきたい戦争の発端と驚きの展開
では、なぜこのような戦争が起きたのでしょうか。その発端は、たった2日前に起きた出来事にありました。
1896年8月25日、当時のザンジバルのスルタンであるハマド・ビン・スワイニが突然死去します。このスルタンはイギリスの植民地支配に協力的な人物でした。ところが、その死後わずか数時間で、イギリスの意向を無視する形で、29歳のハリド・ビン・バルガシュが新スルタンの座に就いてしまいます。
イギリスはすぐさま、「スルタンの座から降りるように」という最後通告をハリドに突きつけました。しかしハリドは、「我々は旗を降ろす意思はない。そもそも貴国が我々を攻撃するとは信じていない」と、強気な姿勢を崩しませんでした。
この判断が、ザンジバルにとって致命的な誤算となります。8月27日午前9時、最後通告の期限が切れるや否や、イギリス艦隊は猛烈な砲撃を開始。わずか数分で王宮は炎上し、守備隊は為すすべもなく敗走することになったのです。
40分間の戦いが歴史に残した意外な影響
この超短期決戦は、意外な形でその後の歴史に大きな影響を残すことになります。
まず注目すべきは、敗れたハリド・ビン・バルガシュの運命です。彼は戦闘終了後、ドイツ領事館に逃げ込みました。イギリスは犯罪人引渡しを要求しましたが、当時の英独間の条約では政治犯は除外されていたため、ドイツ側は拒否。その後ハリドは、ドイツ領東アフリカ(現在のタンザニアの大部分)へ逃亡することに成功します。
しかし、これで物語は終わりません。第一次世界大戦が勃発すると、思わぬ形で彼の運命は大きく動きます。1916年、イギリス軍に逮捕されたハリドは、セーシェルやセントヘレナに流刑となります。結局、東アフリカへの帰還を許されたのは、戦いから30年以上が経過した後のことでした。1927年、彼はケニアのモンバサで その生涯を終えることになります。
戦後、イギリスはハリドの支持者たちに対して厳しい処罰を科しました。発射した砲弾の費用と略奪による被害の賠償金として、30万ルピーという当時としては巨額の支払いを命じたのです。
さらに興味深いのは、この40分間の戦いがザンジバルの将来に及ぼした影響です。イギリスは親英派のハムド・ビン・ムハメドを新スルタンに据えましたが、彼は事実上の傀儡(かいらい)として、イギリスの意向に従う立場となりました。
その後、ハムドは奴隷制度の完全廃止に着手します。しかし、この改革は意外にも時間がかかりました。1891年時点で推定6万人いた奴隷のうち、解放されたのは10年間でわずか17,293人だったといいます。
最も注目すべきは、この超短期決戦がもたらした抑止力です。イギリス海軍の圧倒的な軍事力を目の当たりにしたことで、その後67年もの間、ザンジバルでは一度もイギリスに対する反乱が起きなかったのです。まさに「40分の戦い」は、長期にわたる平和の代償だったとも言えるでしょう。
実は、この40分という時間については諸説あります。史料によって38分説、45分説など、微妙な違いがあるのです。これは、開戦時刻を最後通告期限の午前9時とするか、実際の砲撃開始時刻の9時2分とするかの違い、また終戦時刻をハリドの逃亡時刻とするか、最後の砲撃が終了した時刻とするかの違いによるものです。
このように、わずか40分ほどの戦いは、その後の東アフリカの歴史を大きく変える転換点となりました。突如として始まり、あっという間に終わったこの戦争は、「力の差」が生む結末の非情さと、それがもたらす長期的な影響を私たちに教えてくれています。歴史上最短の戦争は、同時に最も教訓的な戦争の一つだったのかもしれません。
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