『1日3食』はいつから始まった?江戸の職人たちが求めた新しい食習慣

雑学

『1日3食』は昔からあった?実は新しい日本の食習慣

「朝ごはんを抜くと体に悪い」「1日3食はバランスが取れている」――私たちの多くが、こんな言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか。でも、実は「1日3食」という習慣、意外なことにそれほど古くからあったわけではありません。

むしろ日本の長い歴史の中では、つい最近と言っていいほどの”新しい習慣”なのです。江戸時代中期になってようやく定着し始めたことを考えると、1000年以上続いていた「1日2食」の方が、日本の伝統的な食事スタイルと言えるかもしれません。

江戸時代までの日本人は朝と夕方の『1日2食』だった

平安時代から室町時代まで、日本人の食事は基本的に朝と夕方の2回。これは身分に関係なく、天皇から庶民まで同じような食事リズムを保っていました。例えば、後醍醐天皇は正午ごろに1食目、午後4時ごろに2食目を取っていたという記録が残っています。

当時の人々は日の出とともに起き、日が沈むと眠るという自然のリズムで生活していました。朝早くから働き始め、一仕事終えてから朝食を取り、夕暮れ前に2食目を済ませるのが一般的でした。今でいう「ブランチ」のような食事時間帯だったわけです。

ただし、これには例外もありました。たとえば奈良時代の朝廷では、激しい労働を行う役人には「間食(かんじき)※1」と呼ばれる食事が追加で与えられていました。これが、現代の「昼食」のルーツの一つとも言われています。

面白いことに、鎌倉時代の武士たちは戦に備えて携帯食として「おにぎり」を持ち歩いていました。まさに、日本最古の”お弁当”の始まりです。「腹が減っては戦ができぬ」という言葉があるように、戦いに勝つためには食事が重要だと考えられていたのです。

※1:間食(かんじき)― 朝夕の2食の間に取る補食のこと。現代でいう「おやつ」とは異なり、労働者の体力維持のために支給された正式な食事でした。奈良時代の木簡からその存在が確認されています。

江戸の街を変えた大火が『1日3食』文化を生んだ

では、なぜ江戸時代になって1日3食が定着したのでしょうか?その大きなきっかけとなったのが、1657年に起きた「明暦の大火(※2)」でした。

この大火で江戸の街が焼け野原となり、復興のために全国から大工や左官職人たちが集まってきました。朝から夕方まで休みなく働く彼らにとって、朝と夕方の2食だけでは体力が持ちません。かといって、わざわざ家に帰って食事をするのも難しい。

そこで登場したのが、江戸の街角に次々と現れた「飯屋」や屋台です。職人たちは昼時になると、これらの店で手早く食事を済ませました。まさに、日本における「ランチタイム」の始まりと言えるでしょう。

※2:明暦の大火 ― 1657年(明暦3年)に江戸で発生した大規模な火災。江戸三大大火の一つで、江戸城本丸・二の丸を含む城下町の約60%を焼失したとされています。

江戸っ子の食文化を変えた”外食革命”

この「昼に外で食べる」という新しい習慣は、しだいに職人以外の人々にも広がっていきました。商人や庶民たちも「昼食」を楽しむようになり、江戸の街には様々な食事処が増えていったのです。

特に面白いのは、江戸の人々が「料理屋番付(※3)」を作り始めたこと。これは今でいうグルメガイドのような存在で、実はミシュランガイドより100年以上も前から存在していたのです。江戸っ子たちの「美味しいものを求める気持ち」が、外食文化をさらに発展させる原動力となりました。

※3:料理屋番付 ― 相撲の番付表をまねて作られた、江戸の料理屋のランキング表。東西の「関脇」「小結」などに見立てて店を格付けしていました。

江戸の夜を明るくした菜種油が変えた食生活

3食文化が定着したもう一つの理由が、照明革命とも呼べる「菜種油」の普及です。それまで庶民が使っていた魚油は、強烈な臭いを放ち、部屋を煤けさせる厄介な代物でした。そのため、多くの人々は日が暮れるとともに就寝していました。

しかし、菜種油の生産技術が向上し、価格が下がると状況は一変します。庶民でも手の届く価格になった菜種油は、夜の生活を大きく変えました。夜なべ仕事や、夜の娯楽を楽しむ時間が生まれ、必然的に活動時間は延長されていったのです。

こうして長くなった活動時間に対応するため、朝・昼・晩の1日3食体制が自然と定着していきました。まさに、照明の発達が人々の食生活を変えた瞬間だったと言えるでしょう。

世界の『1日3食』文化はいつから?エジソンにまつわる逸話

実は1日2食から3食への移行は、世界各地で起きていた変化でした。古代ローマでは3食の習慣があったものの、中世ヨーロッパでは2食が一般的。日本と同じように、近代化とともに1日3食文化が広がっていったのです。

ここで興味深いのが、アメリカでの3食普及にまつわるエジソンの逸話です。エジソンは「どうすれば頭が良くなるか」という記者の質問に「1日3食食べることだ」と答えました。実はこの発言には、彼なりの”思惑”が隠されていたのです。

当時、エジソンは電気トースターを発明したばかり。「朝食を食べる習慣が広まれば、トースターの需要も増える」という考えがあったと言われています。さらに、電気会社の経営者でもあった彼にとって、トースターの普及は電力需要の増加にもつながる一石二鳥の提案だったというわけです。

食の多様化がもたらした意外な変化

1日3食の定着は、単に食事回数が増えただけではありませんでした。例えば江戸時代、夜の照明が普及したことで、料理屋で食事を楽しむ”夜の外食文化”が生まれました。

また、昼食が定着したことで、今では当たり前となった「お弁当文化」も発展していきました。鎌倉時代の武士が持ち歩いていた「おにぎり」から、江戸時代の「幕の内弁当(※4)」、そして現代の多彩なお弁当文化まで、日本の食文化は実に豊かな進化を遂げてきたのです。

※4:幕の内弁当 ― 江戸時代の劇場で販売された弁当が起源。「幕の内(芝居の幕間)」に食べられていたことから、この名前が付いたと言われています。現代でも見かける「おかずを仕切って詰める」スタイルの元祖です。

気づけば新しい!変化し続ける日本の食文化

このように、私たちが「伝統的」と思い込んでいる1日3食の習慣は、実はわずか300年ほどの歴史しかありません。時代とともに変化してきた食文化は、現代でも進化し続けています。

「朝食は必ず食べなければいけない」「1日3食きちんと取るべき」という考え方も、実は比較的新しい価値観かもしれません。大切なのは、自分のライフスタイルに合った食生活を見つけることなのかもしれませんね。

さて、ここまでの話の中で、あなたが一番驚いた発見は何でしょうか?天皇でさえ2食だった時代があったこと?それとも、エジソンの”商魂逞しい”エピソード?友人との会話のネタにしてみてはいかがでしょうか。

時代ごとの食事回数の変遷
時代 食事回数 特徴
奈良・平安時代 2食 ・朝と夕方の2食が基本
・労働者には「間食(かんじき)」を支給
鎌倉・室町時代 2食 ・武士は戦時中におにぎりを携帯
・後醍醐天皇は正午と午後4時に食事
江戸時代中期以降 3食 ・明暦の大火後に昼食文化が発展
・菜種油の普及で夜の活動が増加
1日3食文化定着の主な要因と影響
区分 出来事 社会への影響
災害復興 1657年の明暦の大火 ・職人の労働に合わせた昼食の定着
・飯屋や屋台の発展
・外食産業の誕生
技術革新 菜種油の普及 ・夜間の活動時間延長
・夜の外食文化の発展
・生活リズムの変化
食文化 料理屋番付の登場 ・外食産業の更なる発展
・グルメ文化の誕生
・食の多様化
世界の動き エジソンの影響 ・トースターの発明と普及
・朝食文化の確立
・電力需要の増加

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