最初に駅メロになったとされる曲は複数ある?
駅メロというと、「最初の曲は一つだけ」と思われがちかもしれませんが、実はそうとも言い切れません。
最初に駅メロになったとされる曲には諸説あり、1951年の『荒城の月』説、1971年の京阪電車説、1988年の仙台駅『青葉城恋唄』説という3つの異なる説が存在しています。
それぞれの説にはきちんとした根拠があり、どれも間違いとは言えないのです。私自身、初めて知ったときには「駅メロにこんな歴史があったなんて」と少し驚きました。
最初の説は1951年の「荒城の月」
1951年5月14日、大分県の豊後竹田駅で初めて駅メロが流れました。この時に使用されたのは、地元出身の作曲家・瀧廉太郎が作曲した『荒城の月』でした。当時の駅員が手動でレコードを再生して流したのです。
ところが、当時のレコードはとても傷みやすく、頻繁に再生していたため、なんと12年間で80枚も交換したという記録があります。現代のようにデジタル機器がなかった時代、駅員たちは苦労しながら手作業でメロディを届けていたのですね。
京阪と仙台駅で生まれた自動メロディ
その後、1971年になると京阪電車の淀屋橋駅で、日本初の「自動再生式」の駅メロが誕生します。当時の鉄道雑誌『鉄道ファン』1971年12月号にもその革新性が取り上げられています。
また1988年にはJR仙台駅が地元ゆかりの『青葉城恋唄』を自動メロディとして採用しました。これは大きな反響を呼び、全国に広まるきっかけとなったのです。
なぜ複数の説が生まれたのか?
最初の駅メロが複数あるのは、「再生方法」と「鉄道会社の違い」というシンプルな理由に分けることができます。
そもそも駅メロが始まった頃は、レコードを手動で再生するしか方法がありませんでした。しかし技術が進み、自動的に再生できる装置が開発されると、鉄道会社ごとに「新しい技術を導入した我々こそが最初だ」と主張するようになりました。
また当時は国鉄と私鉄という異なる鉄道会社があり、互いに独自性を強調しようと試みた結果、「最初」の認識が複数生まれたのです。技術の進歩と企業の事情が絡み合い、複数の「駅メロの最初」が誕生したわけですね。
手動から自動へ変化した再生方法
駅メロの始まりは手動再生でした。豊後竹田駅の駅員が手動でレコードを再生した時代から約20年後、京阪電車が自動再生装置を導入したことで大きな転換点を迎えました。
これまでの手動式は手間がかかり不便でしたが、自動再生装置により、駅メロを効率よく流せるようになりました。この再生方法の違いこそが「最初」の定義を分けるポイントになったのです。
JRが全国へ広めた駅メロ文化
京阪電車の自動メロディは技術革新として重要でしたが、駅メロが全国的に広がったきっかけを作ったのはJR仙台駅です。仙台駅が地元ゆかりの『青葉城恋唄』を採用し、地域色を前面に出したことで、全国的に話題になりました。
その後、全国のJR各駅が地域ゆかりの曲を採用し、駅メロ文化が広く定着していったのです。
まとめ
最初の駅メロとして知られているのは、「1951年の豊後竹田駅『荒城の月』」「1971年京阪電車の自動再生」「1988年JR仙台駅の『青葉城恋唄』」の3つです。手動から自動へと再生方法が進化したこと、鉄道会社ごとの異なる事情が絡み合ったことで、それぞれが「最初」として語られるようになりました。
駅で何気なく耳にしているメロディにも、実はこんな背景が隠されていたんですね。今度駅メロを聞いた時は、ぜひ周りの人にもこの話をしてみてください。ちょっとした雑談のきっかけになるかもしれませんよ。