人間が失ったものは尻尾だけではない

人間は進化の過程で、外に伸びる尻尾や、ビタミンCを体内で作る能力を失ってきました。
さらに、犬や猫のように耳を大きく動かす力や、豊かな体毛によって体温を保つ働きも弱まっています。
進化というと、新しい能力を獲得し、身体がどんどん優れたものになっていくイメージがあるかもしれません。しかし実際には、祖先が持っていた特徴を失うことも、進化の一部です。
しかも、失われたものが跡形もなく消えているとは限りません。尻尾の名残は背骨の末端にあり、耳を動かす筋肉も残っています。
寒い日に立つ鳥肌も、かつての身体の働きを知る手がかりです。
尻尾は消えても尾骨は残った

サルのなかには、長い尻尾でバランスを取ったり、枝をつかんだりする種類がいます。ところが、人間やチンパンジー、ゴリラなどの類人猿には、外に伸びる尻尾がありません。
この違いは、類人猿の共通祖先で尻尾が失われたことによるものと考えられています。その変化は、およそ2500万年前にさかのぼると推定されています。
では、人間の尻尾は完全に消えてしまったのでしょうか。
実は、背骨のいちばん下にある「尾骨」が、その名残です。尾骨は通常3〜5個の尾椎に由来する骨で、かつて外に伸びていた尻尾の一部に相当します。
尻尾が失われた仕組みについては、遺伝子の研究からも手がかりが見つかっています。
2024年に学術誌『Nature』で発表された研究では、「TBXT」という遺伝子の働き方を変えるDNA配列の挿入が、尻尾の喪失に関わった可能性が示されました。
関連する変化を再現したマウスでは、尻尾が短くなったり、なくなったりする例も確認されています。
ただし、尻尾を失う仕組みの手がかりが見つかったことと、「なぜ尻尾を失う変化が進化の過程で広まったのか」が解明されたことは別です。
二足歩行のために尻尾が不要になった、と単純に断定できるわけではありません。
一方、現在の尾骨は単なる使い道のない骨ではありません。骨盤底の筋肉や靱帯が付着する場所であり、座った姿勢で身体を支える働きにも関わっています。
尻尾としての役割は失われても、残った骨には今も仕事があるのです。
耳の動きや体毛の保温力は弱まった

犬や猫が物音に気づいたとき、耳をぴくっと動かす姿を見たことがあるでしょう。音の方向に耳を向けることで、周囲の音を捉えやすくしています。
人間の多くは、同じように耳を大きく動かすことができません。ところが、耳を動かすための筋肉は、現在も活動しているのです。
2025年に発表された研究では、人間が聞き取りにくい音声に集中すると、耳の上側にある筋肉の活動が高まることが確認されました。
また、音が後方から聞こえる場合には、耳の後ろ側にある筋肉の活動が強まるという結果も得られています。
耳そのものはほとんど動かなくても、筋肉は聞き取りの難しさや音の方向に応じて反応しているわけです。ただし、この反応が実際に聞こえやすさを高めているかどうかは、まだ明らかではありません。
そして、もう一つ。寒い日に腕に現れる「鳥肌」にも、かつての身体の働きが残っています。
鳥肌は、毛穴の近くにある「立毛筋」が収縮し、体毛を立たせることで起こります。毛が密生した動物では、毛を逆立てると空気の層ができ、体温を保つのに役立ちます。
一方、人間の身体は毛皮を持つ動物のように太い毛で密に覆われているわけではないため、同じような保温効果は期待できません。それでも寒さを感じると立毛筋が収縮し、皮膚に小さな盛り上がりが生じます。
鳥肌が立つのは寒いときだけではありません。音楽を聴いて強く心を動かされたときにも起こることがあり、こうした反応は研究でも確認されています。
毛を逆立てても毛皮のような防寒効果は得られないのに、立毛筋は今もさまざまな刺激に反応します。防寒の役割が小さくなった現在でも、鳥肌を生じさせる仕組みは働き続けているのです。
人間はビタミンCを体内で作れなくなった

進化で失われたのは、尻尾や耳の動きといった目に見える特徴だけではありません。人間にはできないのに、犬や猫が当たり前のようにできることもあります。
それが、ビタミンCを体内で作る能力です。
人間はビタミンCを自分の身体で合成できないため、果物や野菜などの食べ物から摂取しなければなりません。ところが、犬や猫をはじめ、多くの哺乳類は体内でビタミンCを作ることができます。
この違いには、遺伝子の変化が関係しています。
多くの哺乳類では、ビタミンCを合成する最後の段階で「L-グロノラクトン酸化酵素」という酵素が働きます。しかし、人間ではこの酵素を作るための遺伝子が機能を失っています。
ただし、遺伝子そのものが完全に消えたわけではありません。働きを失った「偽遺伝子」として、現在の人間のDNAに残っています。
ビタミンCを作る能力を失った痕跡は、骨や筋肉だけでなく、遺伝子にも残されているのです。
この能力を失ったのは人間だけではありません。チンパンジーやゴリラ、ニホンザルなども、ビタミンCを体内で合成できません。能力の喪失は、これらの動物と人間が分かれるよりも古い祖先の時代に起きたと考えられています。
なぜ合成能力が失われたのか、その進化上の詳しい経緯は確定していません。
一つの仮説として、食べ物から十分なビタミンCを得られる環境では、自分で合成する能力を維持するための自然淘汰の圧力が弱まり、遺伝子の機能を失う変化が残りやすかったという考え方があります。
そして、この変化は大昔の出来事で終わったわけではありません。現在の私たちが毎日の食事からビタミンCを摂取する必要があるのも、遠い祖先で失われた合成能力の影響なのです。
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