「歌舞伎町」という地名の由来
「眠らない街」という名で呼ばれるほど、深夜まで営業するお店の数々が立ち並んでいる歌舞伎町は、日本屈指の歓楽街です。しかし、歌舞伎町という名前がついているにも関わらず、実際には歌舞伎が行われる劇場などはこのエリアに存在しません。
いったいなぜ歌舞伎町という名前がつくことになったのか、この町の歴史を振り返ってみましょう。
歌舞伎町には「歌舞伎劇場」が建つ予定だった!
現在の歌舞伎町周辺は、戦前まで角筈(つのはず)1丁目や東大久保3丁目と呼ばれる場所でした。
それが歌舞伎町という名前に生まれ変わることになったのは、第二次世界大戦末期の1945年3月に起きた「東京大空襲」によって、街が焼け野原になってしまったことが始まりです。
戦後まもなく、壊滅的な被害を受けた地域の復興計画として、町会長だった鈴木喜兵衛さんがこのエリアに歌舞伎の劇場や映画館、ダンスホールなどを建設・誘致し、エンターテインメントの力で日本を再び盛り上げようと立ち上がりました。
そして、区画の整理を終えた鈴木さんが新しい町名について東京都に相談した結果、地域の中心部に歌舞伎劇場ができることをふまえて、1948年に「歌舞伎町」と命名されたと言われています。
建設計画は道半ばで立ち消えに
ところが、戦争の傷跡を癒やすのにぴったりかと思われた復興計画も、戦後の物資不足の影響や、予算の都合がつかないという事態に陥ったことで、歌舞伎劇場の建設は不要不急だと判断されてしまいました。
計画の要となるはずだった歌舞伎劇場の建設予定は、残念ながら完全に立ち消えとなったのです。
しかし、劇場は作られなかったものの、映画館やキャバレーなどのナイトクラブ、カフェなどの開業が続き、歌舞伎町は娯楽の中心地として発展していきました。現在はかつての復興計画の名残りとして、町名の中にだけ「歌舞伎」という言葉が残っています。
戦前の歌舞伎町はどんなエリアだったの?
今でこそ歌舞伎町はキャバクラやホストクラブ、居酒屋などがあふれるエリアとなっていますが、戦前はまったく趣の違う環境でした。
そもそも、明治に入った頃の歌舞伎町周辺には元・大村藩主の邸宅があり、あたり一面は湿地帯で、鴨猟に使われるような場所だったとされています。
やがてこの土地が実業家の手に渡ると開発が進み、東京府立第五高等女学校(現在は東京都立富士高等学校・附属中学校)が創設されたほか、明治から大正にかけて宅地化が進んでいきました。
昭和初期には、総理大臣を経験したこともある政治家が住むくらいの高級住宅地となっていたのです。東京大空襲がなければ、「歌舞伎町」という名前も、歓楽街としての姿も生まれることはなく、そのまま「憧れの居住エリア」としてあり続けていたかもしれませんね。
歌舞伎町ができた背景には戦後の事情が隠されていた
今回は歌舞伎町がどのように命名されたのか、その経緯をご紹介しました。戦前は今とは大きく異なり、学校や住宅地としての一面が強い場所だったという記録があちこちに残っています。
しかし、空襲によって焼けてしまったことで、戦禍から立ち直るための復興計画のもと、娯楽をぎゅっと集めた現在の歌舞伎町が誕生しました。歌舞伎劇場は作られませんでしたが、町名には当時の人々の想いが込められていたのです。
近寄りがたいイメージが強い歌舞伎町も、今では世界中の人が訪れる観光スポットへと姿を変えようとしています。由来や歴史を知った上で訪れてみると、新しい見方で歌舞伎町を楽しめるかもしれません。