「あの三角い旗」が観光地のお土産だった理由
「子供の頃、部屋に観光地のペナントを飾っていた」「修学旅行の記念に買って帰った」という思い出を持つ方も多いのではないでしょうか。一方で、若い世代からは「ペナントって何?」という声も。
実は1980年代まで、観光地に行けば必ずと言っていいほど目にした定番のお土産がペナントだったのです。
河合奈保子の大ヒット曲「invitation」の歌詞にも「ペナントだらけのあなたの部屋に…」というフレーズが登場するほど、当時の若者の部屋には当たり前のように飾られていました。まさに昭和の象徴的な存在だったと言えるでしょう。
ペナントはどこからやってきた?意外と深い歴史
そもそもペナントとは、中世ヨーロッパで騎士が槍の先につけていた三角形の小さな旗のこと。「ペノン」という旗から進化し、後に船舶の信号旗としても使われるようになりました。
騎士たちは自分の家系や所属する軍隊の紋章をペナントに描き、誇りとアイデンティティの象徴としていたそうです。まるで現代の野球チームがチームロゴの入ったペナントを掲げているように、当時から「所属」や「記念」を表す意味合いがあったんですね。
その後、19世紀後半のアメリカでは大学スポーツが盛んになり、優勝チームに贈られる記念の旗としてペナントが採用されました。これが野球の「ペナントレース」という言葉の由来です。日本でも1936年に初めてプロ野球のペナントレースが始まり、優勝旗としてのペナントが定着していきました。
お土産ペナントを生んだ26歳の起業家
では、なぜペナントが観光地のお土産になったのでしょうか?その答えは、一人の若き経営者の大胆な発想にありました。
1956年、神奈川県鎌倉市で間タオルを創業した間勇さん。わずか26歳でした。当時、裁判所に勤めていた公務員でしたが、戦後復興の波に乗って「何か新しいことを始めたい」と一念発起。アメリカから入ってきた「タオル」に目をつけ、起業を決意したのです。
創業から3年目、まだ会社も軌道に乗らない時期に、大の巨人ファンだった間さんは野球観戦に出かけました。そこで目にしたのが、バックスクリーンにはためく優勝ペナントでした。その時、ふと閃いたのです。「あの三角の旗に観光地の絵を入れたら、きっと売れるはずだ」と。
しかし、創業間もない若い会社に融資をしてくれる金融機関はありませんでした。それでも間さんは諦めません。知人や家族から少しずつ資金を工面し、ついに観光地ペナントの第一号を完成させました。その図柄に選んだのが、当時建設中だった東京タワー。戦後復興の象徴として注目を集めていた東京タワーは、間さんの直感通り、見事に人々の心をつかんだのです。
なぜペナントは爆発的に売れたのか?時代が生んだ大ヒット商品の秘密
1950年代後半から60年代にかけて、日本は高度経済成長期を迎えます。社会インフラの整備が進み、国民の所得も増加。「一度は行ってみたい」と憧れだった観光地へ、多くの人が足を運べるようになりました。
この時代、一般家庭にカメラはまだ珍しい存在。旅の思い出を形に残したいという需要は強かったものの、手軽な記録手段がありませんでした。そんな中、観光地の風景が描かれたペナントは、まさに理想的な「思い出アイテム」だったのです。
特筆すべきは、1枚200円という価格設定です。「手軽に買えるように」という間さんの考えから、当時の子供たちでも無理なく手が届く価格に設定されました。これが功を奏し、特に修学旅行生の間で「旅行に行ったら記念にペナントを買って帰る」という習慣が自然と定着していったのです。
ある昭和30年代生まれの方は、「修学旅行で買って帰ったペナントを見るたびに、友達と騒いで写真を撮った思い出が蘇ってくる。今でも大切に保管しているんですよ」と懐かしそうに語ってくれました。
「東京タワー」から「大阪万博」へ 全国に広がる観光ペナント人気
東京タワーペナントの成功後、間タオルには全国各地の観光地から製作依頼が殺到します。北は北海道から南は九州まで、社内の製造ラインはフル稼働。それでも注文に追いつかないほどの人気ぶりでした。
中でも最も売れたのが、1970年の大阪万国博覧会(通称:大阪万博)の記念ペナントでした。「人類の進歩と調和」をテーマに開催された大阪万博は、日本中が熱狂した一大イベント。会場で販売されたペナントは、まさに時代の象徴として多くの人々の心に刻まれることになります。
「鳥取県の皆生温泉も売れた。大分県の鯛生金山も売れた。神奈川県の城ケ島は売り切れた」と、当時を知る関係者は振り返ります。観光地の名前と風景が描かれたペナントは、その土地の魅力を切り取った「旅の証」として、旅行者たちの心をつかんでいったのです。
お土産ペナントが消えていった意外な理由
しかし、1990年代に入ると状況が一変します。カメラの普及により、誰もが手軽に旅の思い出を写真に収められるようになったのです。さらに追い打ちをかけたのが、携帯電話の登場でした。
特に大きな転機となったのが、ご当地ストラップの台頭です。コンパクトで実用的なストラップは、ペナントに代わる新たなお土産として人気を集めていきました。「部屋に飾るスペースがいらない」「持ち運びが便利」といった実用性が、若い世代の心をつかんだのです。
間タオルは2012年、東京スカイツリーの開業記念ペナントを最後に、観光ペナントの製造から撤退します。現在、日本国内でペナントを製造しているのは、北海道の一社のみと言われています。
ここで興味深いのは、かつてペナントが果たしていた「思い出を形に残す」という役割が、スマートフォンやSNSに取って代わられた点です。写真を撮って即座にシェアできる時代に、わざわざ三角の旗を買って帰る必要はなくなったのかもしれません。
令和時代に語り継ぎたい観光ペナントの物語
「絶対に売れる」という確信もないまま、若き経営者が社運を賭けて生み出した観光ペナント。その大胆な発想は、昭和の観光文化に大きな足跡を残しました。
実は今、このペナントが思わぬ形で注目を集めています。コレクターたちの間で、昭和時代の観光ペナントが人気を集めているのです。その理由は「各地の観光地の歴史を伝える貴重な資料としての価値」にあると言われています。
例えば、1960年代の東京ペナントには、まだ建設中の高層ビル群が描かれており、当時の東京の様子を知ることができます。また、すでに失われてしまった観光名所や、その時代ならではの風景が描かれているものもあり、まさに「昭和の記憶」を留める存在として評価されています。
興味深いことに、間タオルの現社長である間隆浩さんは、「2025年の大阪万博で、もう一度記念ペナントを作れたらいいな」と期待を寄せています。かつて最も売れた大阪万博ペナントの再現は、昭和の思い出を令和につなぐ架け橋となるかもしれません。
あなたの家にも、もしかしたらペナントが眠っているかもしれません。それは単なる三角の旗ではなく、戦後日本の復興と高度経済成長、そして人々の旅への憧れが詰まった、貴重な時代の証人なのです。両親や祖父母に「ペナント」の話を聞いてみると、きっと素敵な思い出話が聞けるはずです。そして、そんな会話を通じて、昭和という時代が紡いだ温かな物語に、触れることができるのではないでしょうか。
人々の記憶の中で、観光ペナントは確かな存在感を放ち続けています。写真やSNSでは決して代替できない、昭和時代ならではの旅の思い出として、これからも大切に語り継がれていくことでしょう。
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