「民放の日」とは?なぜ4月21日なの?
「民放の日」という言葉を聞いて、すぐにピンとくる人はあまり多くないかもしれません。実際、テレビやラジオを楽しんでいても、それらがいつから始まったかまでは考えないですよね。でも実は、私たちが毎日楽しんでいるテレビやラジオにもちゃんとした「誕生日」があります。それが4月21日の「民放の日」です。
この「民放の日」のルーツをさかのぼると、1951年(昭和26年)4月21日に行きつきます。この日、日本で初めて16社の民間ラジオ放送局に放送の予備免許が交付されました。これを記念して1968年、日本民間放送連盟(民放連)が「放送広告の日」として制定しました。
その後1993年に名前が「民放の日」へと変わり、現在に至ります。そもそも「民放の日」が制定された理由は、民放が担う社会的な役割や価値を、広く多くの人に知ってもらうことでした。
私たちの日常生活の一部になっているテレビやラジオですが、こうしたメディアがなぜ必要で、どんなふうに私たちの生活に関わっているのかを、改めて考えるきっかけになる日でもあります。
民放とNHKの違いって何?
普段何気なく見ているテレビや聴いているラジオには、大きく分けて「民放」と「NHK」がありますよね。よく「民放はCMがある」「NHKはCMがない」なんて言いますが、違いはそれだけではありません。意外に知られていない民放とNHKの違いについて、ここで整理しておきましょう。
お金の集め方が違う
民放とNHKの最も大きな違いのひとつが「お金の集め方」です。民放のテレビ局やラジオ局は主に広告収入で運営されています。番組と番組の間に流れるCMは、民放の収入源そのものなんですね。
一方、NHKは「受信料」という形で視聴者から直接料金を集めています。CMが入らない代わりに、テレビを持っている家庭は基本的にNHKへお金を支払う仕組みです。
分かりやすく言えば、民放は広告主がスポンサー、NHKは視聴者自身がスポンサーというイメージですね。
放送内容や番組の作り方も違う
もうひとつ重要な違いは、番組作りの方針です。民放は、視聴率や広告収入を確保するため、より多くの人が楽しめる内容や話題性のある番組を積極的に制作します。そのため番組内容がバラエティ豊かで、競争が激しい環境となっています。
それに対し、NHKは「公共放送」という立場を取っています。そのため、視聴率や話題性だけを追求するのではなく、教育的価値が高い番組や、公共性の高いニュース報道を重視します。もちろん娯楽番組もありますが、民放に比べると落ち着いた雰囲気の番組が多くなっています。
例えて言うと、民放が繁華街のように活気ある多様性を提供するなら、NHKは静かな図書館のように落ち着いた、公共性を大切にした情報を提供しているようなイメージですね。
「民放の日」と混同しがちな他の記念日
テレビやラジオに関係する記念日は、「民放の日」以外にもいくつかあります。たまに混同されることもありますが、実はそれぞれ別の意味を持つ別の記念日です。ここで一度整理しておきましょう。
放送記念日(3月22日)
まずよく混同されるのが、毎年3月22日の「放送記念日」です。この日はNHKを中心にした記念日で、1925年(大正14年)3月22日に日本で初めてラジオ放送が行われたことを記念しています。
つまり、「放送記念日」はNHKをはじめとする放送のスタートを祝う日であり、「民放の日」は民間放送が自由なメディアとして認められたことを記念する日、という違いがあります。
NHK中心の「放送記念日」と民間放送が主役の「民放の日」、似ているようで実は違う役割を持っているんですね。
旧称「放送広告の日」との違い
もうひとつ混乱を招きやすいのが、「民放の日」の昔の名前である「放送広告の日」です。1968年に制定された当初は「放送広告の日」と呼ばれていて、その名の通り広告の役割や意義を広く伝えることが主な目的でした。
しかし1993年に「民放の日」と名前が変わってからは、広告だけではなく「民放が社会の中で果たす広い役割」に焦点が当てられるようになりました。
つまり「放送広告の日」は広告そのものに重点を置いていましたが、「民放の日」では民間放送全体の価値を伝えることに目的が広がったわけです。
こうしてみると、名前の変更は単なる言葉の違いだけではなく、その記念日の持つ意義や役割自体が広がったことを示していますね。
民放が日本の歴史に与えた影響とは?
テレビやラジオが単なる娯楽を超えて、日本の社会に大きな影響を与えてきたことはあまり意識されません。でも実は、民放は重要な場面で日本を支えたり、ライフスタイルを変えたりしてきました。
ここではそんな民放の影響を、歴史的な出来事を通じて少し振り返ってみましょう。
戦後日本を元気づけたラジオ放送
終戦直後の日本は、多くの人が不安を抱え、毎日の暮らしにも苦労する状況でした。そんな時代に人々を勇気づけたのが、民間ラジオ放送の誕生でした。
ラジオから流れる明るい音楽や軽妙なトークは、人々の心を慰めました。専門家によると「ラジオ放送が人々にとって心の拠り所となり、暗い気持ちを和らげた」と言います。ラジオ放送が人々に与えた影響は、今でいうところのSNSのようなコミュニティ感をもたらしたとも言われています。
また、スポーツの実況中継やドラマ放送など、新しいエンターテインメントの提供も始まりました。これが後のテレビ放送にもつながっていきます。
民放ラジオはただの娯楽以上に、日本人が前向きな気持ちを取り戻すための大きな役割を果たしていたのです。
テレビの登場が変えた日本の家庭
戦後の日本が高度経済成長期を迎えると、各家庭に急速に普及したのがテレビでした。特に1959年、皇太子ご夫妻(後の天皇皇后両陛下)のご成婚をきっかけに、多くの家庭がテレビを購入しました。
これにより、それまでのラジオ中心の家庭風景が一変しました。それまで音声だけだった情報に映像が加わることで、ニュースやスポーツ観戦、ドラマやバラエティ番組が家庭に新しい楽しみをもたらしたのです。
また、テレビは家庭団らんの中心になり、夕食後のリビングで家族がテレビを囲む風景が当たり前になりました。今ではそれが自然な風景ですが、テレビが登場した当初は、家族が一緒に映像を楽しむこと自体が大きな社会的変化だったのです。
専門家はこれを、「テレビが家庭の中心になることで、家族のコミュニケーションの形が変わった瞬間」と指摘しています。
こうして振り返ると、テレビやラジオが単なる娯楽を超えて、日本の社会や家庭に深く関わり、私たちの生活の形を作ってきたことが分かりますね。
知っていると楽しい民放雑学
これまで民放の歴史や社会への影響について振り返ってきましたが、最後に民放にまつわる、ちょっとした豆知識を紹介します。
「民放の日」に関する話題はもちろん、ふとした会話のネタにもなる面白いエピソードばかりなので、ぜひ誰かに話してみてくださいね。
日本初のテレビCMは服部時計店
今では当たり前になっているテレビのCMですが、日本で初めて放送されたのは1953年8月28日のことでした。その記念すべき最初のCMは、服部時計店(現在のセイコー)の時計の宣伝でした。
放送されたのは、夜7時の時報とともに流れた短いCM。「時計の針は正確に7時をお知らせします」というナレーションとともに、時計がアップで映し出されました。
今から見ると地味な印象ですが、当時の視聴者には新鮮で画期的なものだったそうですよ。
日本初の民放局はCBCラジオ
日本で最初に開局した民放局は、名古屋にあるCBCラジオ(中部日本放送)です。CBCラジオは1951年9月1日に日本初の民間放送をスタートさせました。
CBCラジオの初放送は、「こちらは名古屋のCBC、中部日本放送です」というシンプルなアナウンスから始まりました。その後は音楽番組やニュース、ドラマ放送など、多彩な内容が展開されました。
これを皮切りに、日本各地で次々と民放ラジオ局が誕生したわけです。まさにCBCラジオが、日本の民間放送の先駆けとなったのですね。
民放ラジオの第一声は「JOAR、こちらはラジオ東京」
東京での初の民放ラジオ局といえば、現在のTBSラジオの前身である「ラジオ東京」です。1951年12月25日、クリスマスの朝にスタートしたラジオ東京の記念すべき第一声は、「JOAR、こちらはラジオ東京」でした。
ラジオ局にはそれぞれコールサインと呼ばれる識別符号があり、JOARはラジオ東京に与えられたコールサインでした。今でもTBSラジオは放送免許上「JOAR」のコールサインを受け継いでいます。
このシンプルな一言が、東京での民間放送の歴史の幕開けを告げた瞬間でした。
テレビやラジオの誕生日を誰かに話してみよう
ここまで「民放の日」をきっかけに、テレビやラジオがどのように生まれ、私たちの生活に影響を与えてきたかを見てきました。普段何気なく楽しんでいるテレビやラジオにも、ちゃんとした誕生日があったなんて、ちょっとした驚きですよね。
今日知ったテレビやラジオの雑学は、誰かに話してみるとさらに面白いかもしれません。家族や友人との会話の中で、「そういえばさ、『民放の日』って知ってる?」なんて気軽に話してみてください。
きっと、いつものテレビやラジオが、少しだけ違って見えてくるはずですよ。